友愛2021年3月ーアーカイブズが語るもの
立花志瑞雄

WFC つ・た・え・る プロジェクト
ワーキングチームリーダー
立花志瑞雄
2021.3.9

アーカイブス資料の写真

全てのことはつながっているという。であるならば、ワールド・フレンドシップ・センター(以下WFC)アーカイブズは、創立者のバーバラ・レイノルズさんにつながっている。WFCの創立から今年8月で56年。バーバラさんをはじめ創立当時のメンバーの多くが亡くなられてもなおWFCが存続しているのは、何故だろうか。バーバラさんの平和への思いが、WFCに連なる一人ひとりの心のなかで、生き続けているからだろう。バーバラさんの記憶がその人のなかで生き続けている。たとえバーバラさんに一度も会ったことがなくとも。アーカイブズとは記憶の遺産である。

一方、人の記憶ほど曖昧なものはないともいう。実は私は1980年代WFCのスタッフをしていた時期があったが、すっかり忘れていた。WFCの歴史を遡るうちに、自分自身がスタッフをしていたことを思い出した。バーバラさんの生きた証がアーカイブズの中にある。語られた言葉。書かれた言葉。言葉にはその人の思いが宿っている。私達が一つ一つの資料に触れ、読んでいくとき、私達は亡き人たちが、何を思い、平和のために活動してきたかを知ることができる。そして、それを次の世代に引き継いでいくことができる。アーカイブズは記憶を呼び起こし、伝えられることを求める。

話は遡るが6年前、被爆70年を覚える会議のためにプレゼンテーションを依頼された私は、30数年ぶりにアメリカに渡った。その機会に、WFCの創立50周年の催しで知り合ったウィルミントン大学平和資料センターの館長、ターニャ・マウスさんをオハイオ州に訪ねた。ウィルミントン大学平和資料センターは、アメリカに帰国したバーバラさんが創立したWFCと縁の深い組織である。ター ニャさんの案内で、所蔵されている資料の一部を見た。私の心に一番残ったのは、原爆乙女で知られる広島流川教会の谷本清牧師に関して、バーバラさんがタイプしたと思われる資料(何か所にも手書きの修正が加えられていた)である。私は後にWFCの機関紙「友愛」の保存作業のなかで、WFCと谷本牧師の関係を知ることなる。平和資料センターには、その他にもWFCに関係する貴重な資料が保存されていることは言うまでもない。アーカイブズは世界を結ぶ。

2019年8月、ターニャ・マウスさんは、平和資料センターに所蔵されていた長崎の浦上天主堂の被爆十字架を返還するために来日した(その十字架を平和資料センターで私も目にした)。広島にも立ち寄られ、じっくりとお話する機会があった。平和資料センターは、その所蔵資料について、インターネット上で情報を公開しているが、WFCがインターネットを通じて、バーバラさんやその活動の歴史について、発信していくことについて助言を求めた。WFCに保管してある図書文献、資料をカタログ化して、SNSを通じて、発信してはどうかと話された。地元のアーキビストから助言を受けることもすすめられた。

また、私は平和資料センターに人員を派遣して、所蔵されている日本語資料の整理に当たることの可能性について尋ねた。実は平和資料センターには、WFCも関わった「ヒロシマを伝える委員会(HAC)」から、沢山の原爆、平和に関する書籍や資料が送られている。ボランティアの人たちが関わった日本語文献の翻訳資料も送られた。新型コロナウイルスの感染拡大のため、2020年に予定されていた人員の派遣は延期されたが、近く実現することを期待している。アーカイブズは人と人を繋ぐ。

ターニャさんは広島滞在中、WFCの理事長を長く務められた森下弘先生にも会われた。森下先生は、理事長の職を辞されてから、一人ご自分の収集された資料の整理にあたってこられた。先生はWFCでターニャさんに、持参された写真を見せながら、ご自身の資料について話された。  ターニャさんは、森下先生の所蔵されている資料の重要性に気づき、その後、知り合いのアーキビスト筒井弥生さんを先生に紹介することになる(筒井さんは2020年7月に来広され、現在もサポートしてくださっている)。また、この時、ターニャさんはWFCに保管されているダンボール箱の資料をご覧になっている。これをきっかけに、WFCのアーカイブズが俄かに動き始める。

WFC創立当時の資料の多くは平和資料センターに保管されている。しかし、1970年代以降の資料が破棄されることなく、保管されていたことは奇跡ともいえる。資料たちは長い間、ダンボール箱のなかで、その扉が開かれることを待っていたのである。WFCでは2017年度から、被爆体験継承事業、つ・た・え・る プロジェクトを実施している。そのメンバーと共に原爆資料館を訪ね、資料保存について、助言をいただいた。アーカイブズ・プロジェクトの始まりである。

次に私たちが訪ねたのは、森下先生のお宅。膨大な資料が保存されていた。先生が見せて下さったのは、機関紙「友愛」の創刊号である(1967年10月20日発行)。半世紀が経過し、ところどころ破れている。原田東岷先生が書かれたマイ・フォン・ダオさんの記事(ベトナムから来広)、北ベトナムに支援物資をとどけるフェニックス号(バーバラさん一家はフェニックス号で世界を一周し、その帰路、水爆実験区域に乗り入れ、抗議した)に関する記事もあり、時代の雰囲気を感じさせる紙面である。この後、私は機関紙「友愛」を通して、WFCの活動の足跡を辿ることとなる。アーカイブズは、語りはじめた。

友愛12月号—WFCインターンでの感想 ナタリー・クカ

友愛
特定非営利活動法人ワールド・フレンドシップ・センター機関紙

WFCインターンでの感想
ナタリー・クカ


5月の終わりに、WFC理事の一人である立花さんが、在日韓国人の歴史ある地域の社会館訪問に私を招いてくれました。それは、私の日本研究で興味ある分野の一つでもありました。立花さんは、その社会館でのデイサービスで仕事をされていたことがあったので、社会館の館長の施設案内とその歴史を伝えて下さる機会を作って下さいました。その案内で私の興味はふくらみ、その施設で一週間奉仕させていただくことを申し出ました。施設で初めての金曜日は少し大変でした。誰も英語をしゃべらないので、非常に緊張しましたし、私の日本語力に頼るしかありませんでした。私は、放課後の講習で、小学校1年生と3年生を担当しましたが、彼らと日本語でうまく意志の疎通がとれないことが度々あったので、とても緊張していました。子どもたちのほとんどは、私の出現にとても驚き、多くの生徒たちは私が日本人かと尋ね、私がアメリカ人というと、さらに驚いたようです。子供たちは、私に近づくときはとてもはにかみ、「外人?」あるいは「よそ者?」と、小さなグループでささやきました。徐々に、女の子のグループが、私の周りでくつろぐようになり、私の金髪にさわったり、青い目をじっと見つめながら、私の家族や飛行機旅行についていろいろな質問をし始めました。施設での二回目の金曜日には、もっとゆとりができ、すべての人や物事が目に見えてうまく行くようになりました。私は、ずっと気楽に日本語を話していたようにさえ思いました。確かに、生徒たちは小1、小3でしたが、彼らの早口広島弁に対する私の理解力は、著しく上達していました。

更に、5月と6月の第三木曜日には、研修仲間のヨヴァナ、館長のバーブとダニー、そして数人のWFC理事たちと被爆者養護ホーム(むつみ園)で奉仕しました。むつみ園での最初の日は、ヨヴァナと私二人共が、ステージの上で日本語による自己紹介ができ、地域のアマチュアグループのハワイアン・フラダンスを観ることができて、楽しかったです。6月には、WFC理事長の美智子さんから、養護老人ホームの人達の為にささやかな出し物を用意してほしいと頼まれました。当然ながら、ヨヴァナと私は、すべての年齢の人々が楽しめるビンゴゲームをすることに決めました。私達は、勝った人のための景品を三つ用意し、日本語の数字を大声で叫びながら、勝った人を喝采するのがとても楽しかったです。おばあさんたちは、景品など期待していなかったので、勝った人がWFCのボールペンを取得した時は非常に興奮していました。

ヨヴァナと私は、広島にいた5週目に、重要な任務を委ねられました。館長達が週末に休暇を取ることになっていたので、ヨバヴァナと私に任務が託され、私達の能力に対する館長達の信頼を非常に光栄に思いました。バーブとダニーは土曜日の朝出発し、ヨヴァナと私はすべて自分たちの力で9人全員の朝食を用意しました。幸いにも、母親の美怜さんと一緒に来たレオナとマイラがその週末の演技の為にWFCに滞在していて、私達の不安を解消し、責任者としてのいくらかの重圧を取り去る手助けとなりました。私達は、問題なく朝食を用意することができ、朝食の間、カリフォルニアからのゲストと信じられないほど素晴らしい会話のやり取りをしました。このゲストグループののんきな性格が皆を非常にホッとさせるものがあり、私達は何の問題もなく任務を果たしながら、週末の時をずっと過ごすことができました。グループの被爆者証言を担当した壮さんが、彼の手作りうちわと彼の所有する桜の木で作った手細工の木製鉛筆をプレゼントしてくれました。彼の寛大さは、WFCですべての人がみせてくれるあらゆる思いやりと寛大さの良い例となっています。ヨヴァナと私は、WFCの理事を私達の優しいおばあさんと呼ぶようになりました。というのは、その人達はいつも面白い会話で私達を甘やかし、果物や甘いものを持ってきてくれました。

月曜日と火曜日の修道大学に加え、水曜日にはWFCの英語クラスに加わりました。毎回のクラスで生徒さんたちが発表する熟練した流暢さに、私は非常に感銘を受けました。そのクラスは、生徒さんの中の一人が、たいていは、戦後の広島の歴史とかメンバーの家族の原爆投下時の経験などを含むお話を英語で発表することで始まります。このクラスはとりわけお茶を出す休憩時間を必ず取り、お互いにお菓子を分かち合います。つぎの半分の時間は、復興に奮闘した元広島市長、浜井信三の自叙伝を英語で読みます。このやり方は、特に生徒さん達が新しい単語を記億し、理解するのに非常に効果的だということ発見しました。事実、私は、このやり方に非常に刺激を受け、二冊の日本語版の本を買い、自分で翻訳してこれらの本を読もうと思っています。

ヨヴァナと私は、10人の被爆者証言を聞くという信じられないほど素晴らしい機会を与えられました。これらの証言は、73年前の同じむしむしする8月初めの朝を詳しく述べますが、各々の被爆者の経験とその人たちが立ち向かった災害や教訓は違った形で、すべて明らかにされました。彼らの力強い心動かすお話は、反核運動への大切さを私に強く気づかせました。高校で第二次大戦の太平洋戦区について学んでいた時、広島・長崎の原爆投下はアジアでの10年に及ぶ戦争に終結をもたらすのには選択の余地がないほど必要であったと思い込んでいました。歴史のクラスでの話し合いの間、アメリカ政府側の考えすらとっており、原爆投下は必要だったとはっきり述べておりました。ほとんどのアメリカ人にとっての本当の問題は、日本との戦争終結に対する教育には、信じられないくらいの偏見があったということです。日本国民は、アメリカ軍進行の際は、女性や子供たちが、竹やりでアメリカ兵士を攻撃するというように、天皇や軍国主義政府に対して猛烈に忠実であったと表現されています。アメリカは、数百万の若いアメリカ人の命が日本との戦いで失われたかもしれないので、広島と長崎は、日本全体で同じ目に合うという見せしめであると主張しています。歴史の教科書の中には、アメリカが日本進駐以前の数か月、多くの大都市へ爆撃を行ったことについて、あまり述べられていません。これらの爆撃中、教科書がアメリカの力の実証として指し示しているような広島・長崎と似た状況にいたるまで、何百ものB24とB29が都市を破壊し尽くしました。爆撃と原獏投下の違いは、後者は、多くの爆弾ではなく、一つの爆弾によってなされました。これらの歴史の本は、アメリカ海軍が、市民と兵士のための貴重な資源の輸出入を妨げる為に、日本を完全に封鎖していたことを述べていません。学生たちは、田舎で食料や他の資源を得るために動員され、起こりうる侵攻を竹やりで阻止するためにしばしば訓練されましたが、原爆投下の時には、日本は餓えに苦しんでおり、女性や子供たちは栄養失調で死にかかっていました。その上、放射線の悪影響による知られざる荒廃状態は別として、原爆投下による物理的打撃は、爆撃された日本の30の他の大都市の被害とほとんど同一です。 私は学びましたが、広島・長崎の原爆投下は、私達の歴史の本が主張しているほど、日本の敗北の決定的要因ではではありませんでした。影響があとから出てくる放射線は、核戦争と原爆被害の最も悲惨な結末です。

被爆者と戦後の日本人の立ち直る力に、私はとても感銘を受けました。爆撃とその結果は悲惨でありましたけれども、生存者たちは皆生き続けるための物や人を見つけることが出来たために、生き残ることができました。そのような廃墟は、生存者にとっては重大な影響を持ちましたが、彼らの全てを奪うことなく、彼らの人となりや生き方を創造するもっと多くの要素がありました。すべての被爆者は、世界規模の平和と完全な非核化を強く望み続けております。彼ら自身の被害を埋め合わせるためではなく、核兵器や核による惨事がもたらす避けがたい破壊により、より多くの人々や、多くの罪のない人々が苦しむことがないようにするためにです。

広島での最後の週になると、広島がとっても好きになったヨヴァナと私は二人とも、帰国することを考えたくありませんでした。ここであった人達はいつまでも変わらない感銘を与えてくれました。そして、私達がここで学んだ歴史は、アメリカに帰った時、地域社会での積極的な平和活動へと私達を促し続けるでしょう。 私はこの研修期間にとても成長しました。そして、叶えてもらえた機会にたいして永久に感謝し、これを無駄にしないように一生懸命活動するでしょう。

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友愛12月号—ワールド・フレンドシップ・センターでの広島体験 ヨヴァナ・ミロセヴィク

友愛
特定非営利活動法人ワールド・フレンドシップ・センター機関紙

ワールド・フレンドシップ・センターでの広島体験
ヨヴァナ・ミロセヴィク


短い間でしたが、日本の広島でワールド・フレンドシップ・センターに滞在したことは私の人生の中でもちろん最高に幸運なことでした。ワールド・フレンドシップ・センターで1か月半暮らして、私は全く異なる文化に遭遇し、全ての場所で驚きを体験しました。私は毎日、センターでの平和、思いやり、親切などについての話し合いや現在の世界の問題についての討論に加わる事ができました。私は非常に多くの講演にも出席しました。それは具体的な広島の歴史についてだけでなく、時が経つにつれてそれがどのように報道されてきたのか、現在の核兵器保有状況はどうなっているのか、どの国が核弾頭を持ち、どの国が持たないのか、現在のイスラエルとパレスチナの問題や、福島原発事故が現代の政治に与えた影響などでした。

この様な心をとらえる社会的な意味のある講義に加えて、私は1945年8月6日に何が起きたのかについての話も数回聞きました。私はその日を生き延び、その後の人生を歩んできた人々と対話することができました。私はWFC全体から発散する立ち直る力と愛を明白に感じました。今は帰国していますが、それが私に取って最も強い思い出の一つです。

ヒバクシャは世界で一番恐ろしい残虐さに直面したにも関わらず、一瞬一瞬を平和に集中して生活しています。彼らは人生を平和の普及に捧げてきましたが、これは誰もが軽視すべき感情ではありません。このような激動の政治時代に積極性と未来への希望を見つけるのは困難なのに、WFCの人々はこれを彼らの目的にしています。私は常にWFCに触発されてきましたが、私の将来の夢は私たち全員が(私も含めて)積極的に平和を主張する責任を負うことです。私はワールド・フレンドシップ・センター、彼らの英語の授業、素敵なメンバー、そしてこの夏に私が経験した全ての意義深い経験に感謝致します。

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友愛11月号—鳥取米子ソーラーパーク見学と揚水発電の旅

友愛
特定非営利活動法人ワールド・フレンドシップ・センター機関紙

WFCピース・セミナー 活動報告 
鳥取米子ソーラーパーク見学と揚水発電の旅


10月22日~23日、WFCピース・セミナーの講師、木原省治さんとその仲間たち総勢6人の旅に参加しました。
島根原発を巡る状況、鳥取、岡山にまたがる俣野川揚水発電所の見学、とっとり次世代エネルギーパークの拠点とっとり自然環境館、ソフトバンク鳥取米子ソーラーパーク、米子水鳥公園・・と様々な場面から生活の知恵を学ぶ旅でした。

米子から脱原発を目指す土光ひとし市議会議員による学習会は、喫茶「よどえもん」にて島根原発の所在地クイズから始まる。過酷事故発生時の避難経路など、私たちの日常生活に最も近いところからの視点は境界のない日本列島全体への問題提起と受けとめる。(PS:ご自宅(淀江町)向かいの空き家を利用した喫茶「よどえもん」コーヒー、ケーキ美味でした)

とっとり自然環境館は環境教育の中核施設として運営。圧巻は隣に広がる国内最大級の(太陽光発電施設)ソフトバンク鳥取米子ソーラーパーク。一般家庭の約12,000世帯分の年間電力消費量に相当する。とっとり次世代エネルギーパークは、太陽光、小水力、風力等50を超えるエネルギー施設等で構成。施設、観光地を巡るエコツアーも実施されている。(PS:自然環境館では除草に一役の3匹のヤギファミリーに川土手の葛の葉を調達する。ちなみに除草剤は一切使用していないそうだがヤギさんたちは除草というより子どもたちに大人気とのことでした)


米子水鳥公園がある中海周辺は、国内で確認された野鳥のうちおよそ42%の種類が記録されており、約120種類、最大10,000羽以上の野鳥が確認される。西日本最大の野鳥の生息地のひとつである。
市民と共に自然を守り育てていく施設として運営されている。
ボランティア指導員の解説を受けながらしばしバードウォッチングを楽しむ。(PS:コハクチョウの集団越冬地としては日本の南限となっている。残念ながら食事に出かけている様子で壮観な群れには会えなかった)

翌朝、今回の旅の主要目的地、俣野川揚水発電所へ向かう。
このダムは二つのダムの高低差(約500メートル)を利用して120万キロワットの発電を行う。上池(土用ダム、岡山県新庄村)、下池(俣野川ダム、鳥取県江府町)、両県にまたがる大規模な施設である。下池より低い位置に地下発電所がありポンプ水車・発電電動機の回転方向を逆にすることにより昼間の発電と夜間の揚水を行っている。揚水発電というのは、電気の需要が季節や時間・曜日、また太陽光発電の普及で日照によっても変化するために、需要量の変動を吸収する役割を持つ。要するに、放電したり蓄電したりする大きな蓄電池の役目を担っている。


電力の使用が少ない夜間に火力・原子力発電所などで発電した電力を使い、下池の水をくみ上げておき、電力が多く使用される昼間に、消費電力の大きさに合わせて上池から下池に水を落として発電し、家庭や工場へ送電する。上池から下池に落として発電できる時間は7時間、下池から上池へ水を上げる時間は10時間かかる。マイナス3時間の損に思われるが見えないところで電気の安定供給に貢献している。

中国電力には俣野川発電所の他、岡山県に新成羽川(しんなりわがわ)30万3千キロワット、広島県に南原(なばら)62万キロワットの揚水発電所がある。
(PS:相互作用によるバランス発電の仕組みは面白い発電方法と思った。山々に囲まれた発電所の周囲は紅葉が始まっていた。猿、鹿、猪、時には熊とも遭遇するとか・・地下発電所は工事中で見学できず残念だった)

パンフレットに書かれている「豊かな自然の宝庫鳥取」のキャッチフレーズ。
鳥取県が試行錯誤しながら向かい合っている自然、環境への取り組みは次世代へ伝わっていく「生きる」テーマとなっていくように思いました。
私たちの、これからの活動に様々なカタチで応用していく学習の旅となりました。

お天気にも恵まれて、行き道は、宍道湖展望台にて道の駅「たかの」で調達したそれぞれのお弁当をシェアしながら和やかな時を過ごし、日本海に面した「うなばら荘」に宿泊。
温泉と美味しい食事に預りおしゃべりも弾んで元気を充電いたしました。
帰り路は国営備北丘陵公園内をドライブ。大きなイベントの後でコスモス畑は見ることが出来ずに残念でした。園内で昼食の後は、三次ワイナリーで買い物して帰途につきました。

木原省治さま、
企画から準備、運転手そして細やかなご配慮に参加者一同、心よりお礼申し上げます。

原稿を書くにあたり、参加者皆さんのメールを参考にさせていただきました。

                  WFCピース・セミナー 渡辺朝香

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友愛10月号—一期一会 バーブ・シェンク

友愛
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一期一会
バーブ・シェンク

 2017年の8月に、広島が私たちの家になりました。想像をはるかに超える程の我が家になりました。ワールド・フレンドシップ・センターに関係する多くの素晴しい人々が、すぐに私たちと仲良くなりました。バーバラ・レイノルズやWFCの使命を学べば学ぶほど、それは私たち自身の使命となりました。800人位のゲストたちを泊め、1600食以上の朝食を提供しながらこの使命を共有することで、私たちは、平和は「一期一会」によって築かれることを確認しました。美しい街とその周辺を歩き、また自転車で巡りながら、私たちは、魔法のように爽やかでくつろげる場所を発見しました。今では私たちのWFCの忙しい2年間のこのような様々な事柄を懐かしく思っています。

 私たちは、文学や歴史を一緒に読んで議論した英語クラスを懐かしく思い出します。こ授業を通して、私たちは、生徒の皆さんの日常生活や興味、関心、そして広島や日本各地の特別な慣習や場所について色々多くを学びました。そして私たちはよく笑いました。

 戦争・平和・文化・政治・個人的な経験について話し合ったゲストたちとの朝食が懐かしく思い出されます。世界中の様々な地域からのゲストが、朝食を取りながら結びつきを深めあうことは特に満足のいくことでした。時には彼らは再び会うための打ち合わせをしました。

 WFCの理事会メンバーや、私たちをサポートし、何かと活動に参加してくれた多くの人々の温かい友情を懐かしく思います。清掃、食料の提供、翻訳や編集、不要品の運び出しと廃棄、WFCのウェブサイトの更新、ゲストやインターンを医者に連れて行くこと、塗装、書籍や文書の整理、家具の移動等をしていただきました。

 私たちが日々親しんだ川から、宮島・瀬戸内海、山々、そして多分何よりも三滝の寺々や山まで、美しい広島を懐かしく思っています。また牡蠣・お好み焼き・その他広島の素晴しい食べ物も思い出します。

 おそらく私たちの仕事の中で、最もやりがいがあったのは、ゲストと彼らの体験を共有する被爆者の証言を目の当たりにしたことでした。ゲストたちは言葉を失うほど感動し、この経験が彼らの人生を永遠に変えたとしばしば語りました。これらのゲストが母国に戻って、被爆者の話を語り伝える影響の大きさを計算することは不可能です。

 広島での2年間、私たちの人生を計り知れない程豊かにしてくれた皆さんに、心の底から感謝したいと思います。私たちは、皆さんの事や、私たちが共有する使命を決して忘れません。

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友愛10月号—広島を振り返って ダニー・オットー

友愛
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広島を振り返って
ダニー・オットー


 過去2年間を振り返ると、私の心は思い出で一杯になり、広島での私の経験について書くことは困難です。私たちは多くの素晴しい人々に出会いました。まず第一に、WFCに関与し、センターの活動に多大な時間と労力を提供している広島の人々に出会い、また、広島の被爆の実相について学ぶために、様々な国から来た多くの興味深いゲストたちに出会いました。時には私たちは二つの世界に住んでいるように思いました。ある時は、世界各国のゲストたちと一緒に時間を過ごし、朝食を提供してから、バーバラ・レイノルズの話と、平和と核軍縮のための彼女の仕事について話しました。レイノルズの話をした直後に、私は英語の授業で、地元のWFCメンバーと会って、広島への爆弾の影響についても一緒に考えたものでした。できれば、この二つのグループの人々を結びつけられたら良かったと思います。

 全ての海外からのゲストたちとの時間を私たちは楽しみましたが、記憶に残る何人かの人たちがいました。最初の年の2月、あまりゲストで忙しく無い時、私たちはある女性から一組の男女二人連れのリクエストを受け付けました。急な予約でしたが、彼らが被爆証言を必ず聞けるように確認を求めました。彼らが到着すると、私たちは一緒に、お茶と会話の時間を過ごしました。自己紹介の後、女性は、これまでに軍関係者を受け入れたことがあるかと尋ねました。私は誰も思い出しませんでしたが、軍の人々も歓迎されることを彼らに保証しました。すると彼女は、男友達に彼の仕事を教えるように促しました。それで彼は私たちに、アメリカ空軍で現役であり、空軍戦略司令部で勤務し、アメリカの核武装した爆撃機を目標に導くためのプログラミングの開発を任されたと語りました。彼の仕事は、爆撃機のパイロットをルイジアナの基地から潜在的な攻撃目標に導くための詳細なチェックリストを開発することでした。それから彼の友人が言葉をはさみ、新たな核戦争が発生した場合に何が起こるかを彼に理解して欲しいと思って、彼らは広島とWFCに来たのだと言いました。

 翌日、二人のゲストはヒバクシャの話を聞き、WFCガイドと一緒に平和公園を巡って、原爆資料館を見学しました。夕方、彼と私は夜遅くまで戦争、戦争の脅威、平和の本質について話し合いました。翌朝、彼らは出発しました。私たちは彼の名前を尋ねませんでした。彼は空軍の彼の上司が彼の訪問を知ったら喜ばないだろうと言いました。私たちは二度と彼らの消息を聞くことはありませんでしたが、私はよく考えます。彼の広島訪問とWFC宿泊が、ひょっとしたら彼の仕事に対する考え方を変えたのではないかと。

 バーバラ・レイノルズは、WFCの使命を「一期一会が平和を築く」と設定しました。これは重要な使命であり、空軍の一員との出会いの例は、私たちが個人レベルで真剣な会話をして人々と触れ合うことができる一例です。私は、このように非常に個人的な方法で平和の構築に取り組む機会を与えてくれたWFCに感謝しています。

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友愛9月号—新館長ロジャー・キャシー エドマーク

友愛
特定非営利活動法人ワールド・フレンドシップ・センター機関紙

Directors_RogerKathyEdmark ワールド・フレンドシップ・センターの新館長、ロジャーとキャシー・エドマークからご挨拶申し上げます。私たちは広島に来て1か月余りですが、WFCで楽しく過ごしています。WFCのボランティアやスタッフの皆様全員に暖かく迎えていただき感謝しています。


ロジャー・エドマーク

 私はアメリカ合衆国ノースダコタ州で生まれました。私が1歳になる前に、両親はシアトルに転居しました。彼らは私と姉を車に乗せて、暖かい気候とより良い働き口を求めてシアトルに向かったのです。1週間もしないうちに父はボーイング社に就職しました。その22年後に、私もボーイング社で働くことになりました。

 私は小学校からハイスクールまで学校教育の全てをシアトルで受けました。大きくなるにつれて私は野球が大好きになり、ハイスクールではずっと野球をしていました。私はいつもスポーツが好きで(野球、ソフトボール、バスケットボール、ゴルフ、その他)競技やコーチ、観戦など何でもしました。ハイスクールを終えると、私はシアトルの老人ホーム、ノースホームで働いて鍋や釜を洗いました。私はシアトルのワシントン大学に入学してからもそこで働き続けました。初めは建築学を学びましたが、最終的には哲学の学士号を取りました。卒業後、私はボーイング社で主に空力学工学技術の分野で43年間勤めました。私の業務は海外出張が多く、日本の東京には頻繁に訪れました。

 50歳代の時、医者から心臓に雑音があると告げられました。その雑音は大動脈弁の先天的な心臓欠陥が原因でした。正常で活動的な生活を送りたければ、治療してもらう必要がありました。そこで私は57歳の時、不完全な弁を新しい人工弁に取り換える手術を受けました。今では、私の心臓は時計のように働いて、本当に1秒間に1回鼓動しています。私の孫たちは私の胸に耳を押しあてて、私の心臓の弁の音がドクドクするのを聞くのが好きです。これらのことを通じて、人がどれだけ長く生きられるかを保証するものは何もないということを考えさせられました。ですから、私たちは巡り来る一日一日を大切にしなければなりません。


キャシー・エドマーク

 私はアイダホ州のトウィンフォールズで生まれました。私の両親は私が4歳の時、教会からの招きに応じて宣教師として宮古島に赴任しました。それから11年間、私は途中1年のシアトルを挟み、日本の宮古、神戸、沖縄に住んでいました。15歳の時、シアトルに戻ってハイスクールの最後の2年間を終了しました。ハイスクールの最終学年の時、私もノースホームで働き、そこでロジャーと出会いました。そして3年後、私たちは結婚しました。

 結婚してからの最初の仕事は家庭の主婦で、4人の子供たちが全員学校に入るまでずっと育児にかかりきりでした。その後教会の招きに応えて、宗教教育の指導者として2年間奉仕しました。それから子供たちが通っている学校区の教育補助員になりました。私はその学校区で25年間働きました。

 私の特技の一つは裁縫です。私の祖母は私が幼いころから裁縫を習わせました。その他は型紙の指示で技能を身に付けました。バービー人形の洋服を作って販売したのが私の初めての仕事でした。十代の頃には自分の洋服を何着か作りましたし、ウェディングドレスも自分で作ったのです! ある時は息子の三つ揃いのスーツも入れて4人の子供たち全員の衣装を作り、家族写真を撮りました。娘のエイミーのバレー学校のためには、短いチュチュも含めて沢山の衣装を縫いました。長女のウェディングドレスと付添人のドレスも私が作りました。次女は既製品のウェディングドレスのお直しだけで私の面倒を省こうとしましたが、私はそれを全部ほどいて作り直しました。1枚の布地を手にして何か綺麗で役立つものを作り出す時、裁縫は最高に気持ちいい達成感を与えてくれます。今は手の痛みのため以前ほど縫いませんが、広島に来てからロジャーのワイシャツを手縫いで4枚も手直ししました。裁縫は役に立つ技能です。

 信仰に導きかれて、私は教会で大変積極的に活動しました。私は人生の殆どを教会の日曜学校の先生として過ごしました。大抵は子供たちですが、若者たちや成人も教えました。宗派を超えて聖書研究をする聖書研究同好会は、7年間私の人生の重要な部分を占めました。その頃一時期は、子供たちのためのプログラムでも働きました。2年前に私たちの娘が、教会のキャンプ・コイノニアのキャンプ・会議センターの給食管理者になり、私に彼女のボランティア助手にならないかと誘いました。それで約1年間、私たちは半分の時間はキャンプで、半分の時間はシアトルの北の私たちの家で暮らしました。キャンプは移行期だったので、ほぼ同時にロジャーがそこの開発ディレクターになりました。


キャシーとロジャー

 1973年に結婚して2か月後、私たちは別の老人ホーム、ノースアベンで二組の管理人夫婦のうちの一組にならないかと頼まれて、そこで1年半暮らしました。それが46年間に及ぶノースアベンとの関係の始まりでした。ロジャーは36年間その理事会の一員で、つい最近は理事長でした。現在彼は名誉理事です。

 地元シアトルの私たちの教会は、ブレザレン派のオリンピックビューコミュニティ教会です。ブレザレン教会はアメリカ合衆国の歴史的な平和主義の教会です。私たちは、ブレザレン教会のブレザレン・ボランティア・サービス(BVS)でWFCのことを知りました。私たちは子供たちが小さい頃から教会の活動や指導的な立場に関わってきました。

 私たちの家族は戸外で過ごすのが大好きでした。私たちは子供たちが野外を好むように仕向けたのではないのですが、たまたまそうなったのです!彼らは皆自然の驚異と美しさが大好きです!今気に入っている場所は、私たちも一部の所有権を持っているビーチハウスです。それは我が家から1時間ほど北に行ったところの海岸に建っています。この浜辺のキャビンで私たちはカヤックを操ったり、浜辺を散歩したり、ハンモックでゆったり過ごしたり、いろんな事をして友人たちや家族と楽しみます。

 キャシーと私にとって、他の人のために奉仕するのは大切な事で、子供たちもまたこの事に引き込まれました。彼らもまた人生の中で、他人のために奉仕する職業やボランティア活動を選びました。私たちは15年前にWFCの事を知り、たちまち興味を持ちました。14年前にロジャーが東京に出張した時にはWFCにも来ました。WFCに一泊して、広島の街を探索したのです。私たちの家には額に入った座右の銘が掛けてあり、「神は私たちの能力や能力の欠如ではなく、求めに応じられるかどうかをお尋ねになります。」と書かれています。私たちはWFCの仕事に応じられるように準備し、WFCでボランティア館長をするようにという神の意思に招かれて、今ここにいます!ここに赴任してまだ短期間ですが、もう多くの素晴しい人々に出会い、多くの興味深いゲストたちのホスト役を務めました。WFCの使命がいかに重大であるかも分かってきました。それは、特に被爆者の話を聞いて対話を通じて、人々との一期一会の関係を築くことです。それによって世界中からの人々に平和のメッセージを伝え、同じ思いを共有できる場所を提供することなのです。


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友愛5月号—中田湖々さんの韓国PAX報告

友愛
特定非営利活動法人ワールド・フレンドシップ・センター機関紙


韓国PAXに参加して
中田湖々


私は韓国への派遣を通じて、文化の違いにおどろきました。

日本と同じアジア国であり、とても近い国にもかかわらず、違いが多くありました。例えば食の面では1日の中で必ず家族全員がそろって食べる時間を作り、コミュニケーションを大切にすることが挙げられます。近年の日本では多くの人が仕事や学校のいそがしさで家庭内での時間のずれが大きくあり、以前ほどのコミュニケーションがとれてないように思えます。

その中で日本と似た文化もありました。例えば、韓国では目上の方への礼儀を大切にします。日本でもそうなのですが、日本との違いとしてはどれだけ仲良くても1歳でも違ったら、とても丁寧に話さなければなりません。他にも日本が韓国から影響されていることもあります。例えばK-POP。今、日本の若者の間ではTWICEやBTSが流行となっています。

お互いが文化を共有している中で、まだ日本は過去のことを謝ることができていません。これからの日本の態度が改められ、両国での絆ができるように、平和について発信していきたいと感じました。


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友愛5月号—松本滋恵さんの韓国PAX報告

友愛
特定非営利活動法人ワールド・フレンドシップ・センター機関紙

韓国RAXに参加して
松本滋恵


4月30日から5月5日まで韓国PAXに参加しました。この旅行では、通常では参加、訪問しない所に行き、貴重な経験をしました。

まず、毎週水曜日、日本大使館前での慰安婦の抗議集会が行われており、5月1日が水曜日に当たり私たちは参加し、次に、午後、西大門刑務所歴史館に行き、更に2日は日本軍「慰安婦」歴史資料館を見学し「ナヌルの家」においてハルモニに会いました。それぞれ旧日本軍の負の遺産です。

水曜日抗議集会では、始まる前にメソジストの牧師のメッセージと祈りがありました。韓国語が分からないので、何を言っているのか分かりませんでしたが、聖書マタイ5章44節には「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とあるのに、抗議集会にどのようなメッセージをし、どのように祈るのであろうか理解出来ませんでした。

西大門刑務所歴史館は、日本植民地時代に独立運動家らを収監し、第二次大戦後は韓国政府が使用した獄舎などを保存公開しています。かつて、拷問と死刑が行われた施設です。

ナヌムの資料館では日本人の矢島宰さんが、慰安婦問題を初めて抗議、表明した姜徳景さんの活動のビデオを見せて下さり、彼女が心理ケアーのため絵を描き、その絵を見ました。それぞれの絵は、彼女の心の叫びが表現され、見る者に彼女と共鳴するところがありました。その後、二人のハルモニにお会いしました。二人は同姓同名で歳も同じ93歳との事でした。一人の方は淡々とした表情で語られましたが、心の根幹には何物にも屈せず、貫き通す強い信念がある方だと思い、「何がしたいか、何がしてほしいですか」と伺ったところ「謝罪と賠償だ」と言われました。もう一人の方は屈託のない明るい性格の方でした。

2日の夜、私は謝罪をし、被爆証言をしました。証言の後、質疑応答の時「原爆でひどい目に会っているのにアメリカに謝罪を求めないのか」と言われ、私は「アメリカ人の多くは、原爆によって早く戦争を終わらせたと肯定しています。日本には嫌なものは水に流す、臭い物には蓋をするという諺があり、多くの人は謝罪を求めていません。若い人は日本とアメリカがかつて戦争したことを知らない人もいます。現在の核は広島に投下した原爆の4000倍の威力があり、1発落とすと地球上の半分は放射能に汚染されます。人道上、そのような威力のある物を使用出来ないのに何故保有するのか、核廃絶に向かわなければと運動をしています。」と応えましたが、理解していただけたかどうか分かりません。

韓国には「恨」という文化があり、日本人には理解できないほど憎しみを長期期間持つそうです。しかし、キム・ヨン・ウン氏(『社会心理学』1989)は「韓国民は非常に寛大であり、他人を許し、恨により自分たちの運命を甘受することができる民族である」と指摘しています。どちらも真実なものと思います。韓国の方が戦争の最高責任者の謝罪を希求する気持ちは理解できます。しかしもし、後者のほうを支持している人が多ければ和解の糸口が見えるのですが。現在日韓問題はギクシャクしています。若い人の力でこれからの日韓問題を解決してほしいと念願します。

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友愛5月号—藤本伊織さんの韓国PAX報告

友愛
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今回の韓国PAXに参加した感想
藤本伊織


今回の韓国PAXは私にとって初めての海外生活であり、初めての異文化交流でした。このプログラムに参加したことにより私は多くの経験と知識を得ることができました。

まず始めに、韓国の歴史です。今回のプログラムでは主に慰安婦問題について学びましたが、この学習を通して如何に日本が慰安婦問題から目を背けてきたか、そしてそれに対して被害者の方々や遺族の方々がどれほど悲痛な思いを抱いているかを痛感しました。私たち日本人がこの問題に関して全く興味を示さず、教育も受けず、まるで他人事のように捉えていることは相手に対して非常に失礼なことであるため、両国の関係を良好に築けるように私たちは今よりも積極的に関心を持ち、解決に近づけるよう政府に訴えかけなければいけないと感じました。また、松本さんの被ばく証言の質疑応答の時間では、「何故日本人は原爆の件を許しているのか」「謝罪は求めていないのか」など日本人と韓国人の思考の違いを明確に感じることもあり、こういった思考の違いが互いにすれ違いを生じさせている原因でもあると思いました。

次に、韓国の文化です。これは主にホームステイという特別な滞在により一般的なホテル宿泊の観光では得られない経験を得ることができました。例えば、手作りの韓国料理や、地元の方だからこそ知っているお店など、有名な観光地よりもよりローカルで現地の文化に直接触れられるものです。さらに、食事や観光だけでなく、ホストファミリーや現地の方々、子供たちとの会話を通して韓国語という新たな言語もほんの少しではありますが身につけることができました。

最後に、今回のプログラムに参加して一番良かったと思えることは家族が増えたことです。それは私のホストファミリーのことですが、彼らは私のことを初日から温かく迎え入れてくれ、毎日本物の家族のように接してくれ、最終日には「あなたは私たちの家族だから、韓国に来たときはいつでもうちに泊まればいい。」とまで言ってくれました。

これらの経験はすべて普通の観光や旅行では決して得られないものであり、たった6日間という短い期間でしたが、とても濃く有意義な時間で、本当に参加してよかったと思えるプログラムでした。今回このような素敵な機会を与えてくださったWFCの方々や、Peace buildingの方々に心から感謝しています。ありがとうございました。

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