創立者
バーバラ・レイノルズ

バーバラによる
「希望の都市広島」

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バーバラ・レイノルズは、1951年夫アール・レイノルズと子供と共に広島に来ました。夫のアールがアメリカ政府から、原爆被害にあった子供たちの調査のために、原爆傷害調査委員会(ABCC、今はRERF)に派遣されたからです。3年の任期の後バーバラとアールは、3人の子供のうちの2人と、3人の若い日本人を伴い、フェニックス号と命名されたヨットで、広島を出航しました。

 

自分たちのヨットで世界中を航海することは、アールの長年の夢でした。世界中を旅するにつれ、家族の関心は世界平和へと発展していきました。行く先々で彼らと出会う人々が、同行の日本人に原爆の被害や影響についてたくさんの質問をしました。バーバラ一家は、話を聞きながらたくさんのことを学びました。というのは広島での3年間は、米軍関係者のための駐留場所、呉市虹村に住み、日本人との接触もほとんどなく、原爆によって広島に何が起きたのかあまり理解していなかったのです。

 

バーバラ一家はハワイに寄港した際、4人のクエーカー教徒が、南太平洋での自国の水爆実験を阻止しようと、実験を行なっていた立ち入り禁止海域に、ゴールデン・ルール号で、進入しようとしていることを知りました。バーバラ一家も使命感に駆り立てられ、自分たちも同じように、フェニックス号で水爆実験区域に乗り入れ、抗議しました。その結果アールは逮捕されますが、2年間の法廷闘争の後無罪を勝ち取り、広島に帰りました。広島に帰ると虹村ではなく、フェニックス号で暮らしましたが、多くの被爆者から感謝を伝えられ、バーバラは感動しました。と同時にアメリカの人々に、広島の惨状を伝えるように懇願されますが、自分のできることに限りがあることを感じます。

 

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広島に帰って1年後、バーバラ一家は、ソ連の核実験にも抗議して、「世界の反核、平和のメッセージ」の抗議文を携えて、フェニックス号でナホトカへ行きました。ソ連側は上陸を拒否しました。しかし、バーバラは、生まれて初めて会ったロシア人のソ連側の係官と話し、米ソ両国民が膝を交えて話し合うことが出来たら、お互いそんなに恐れる必要はないのにと感じます。

 

ソ連への航海から広島に戻ってきたバーバラは、翌年一人の被爆者と、原爆で孤児になった若者を連れて、平和巡礼の旅に出発しました。原爆の話などの本を携えて、核保有国を含む12ヶ国を訪れました。2年後の1964年バーバラは、25人の被爆者(広島から19人、長崎から6人)と通訳を伴った「平和巡礼団」を組織し、75日間かけ核保有国を中心に8ヶ国、150の都市を訪れ、核廃絶を訴えました。バーバラ・レイノルズは1965年の8月7日、ワールド・フレンドシップ・センターを設立しました。世界中から訪れる人々に被爆者から直接、被爆体験を聞ける機会を提供し、人々が、友情を築き、平和を促進する場所として今日まで続いています。

 

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1969年にバーバラはアメリカへ帰国し、1975年にオハイオ州ウィルミントン大学に、平和資料センター、広島・長崎記念文庫を設立しました。センターの初代の名誉理事長、またバーバラの良き理解者でもあり、親友でもあった広島の外科医、 原田東岷医師の言葉を借りると、バーバラは「花神」なのです。花神は、種は蒔くけれども、その収穫は自分のものとせず、他の人に譲って収穫を喜んでもらうということです。バーバラは難民救済にも力を尽くし、生涯清貧を貫きました。また、クエーカー教徒として、バーバラは神への強い信仰に生き、祈りと人類愛に満ちた行動をしました。1990年2月11日永遠の眠りに着きました。

 

バーバラ・レイノルズによる「希望の都市 広島」


バーバラが1969年に広島を立ち去る時に、ヒロシマの人々に、
未来の世界平和に向けての彼女の願いを述べています。
希望の都市としてのヒロシマの将来に対する彼女の思いを理解して頂くために、
お別れのあいさつを収載致しました。